[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」


建国の偉人達 ケソン

30th.Nov.2000.

  

  生い立ち、アギナルドの下で戦う、出世コースを歩む。

  マヌエル・ルイス・ケソンは、1878年6月19日、元のタヤバス州、今のケソン州の
  寒村バレーンに生まれた。 父は、スペイン人牧師で母はフィリピン人。
  彼がサント・トーマス大学在学中に、アギナルド将軍を首領とする革命運動が起こり、
  革命軍の士官として各地に転戦したが、治まって大学に帰り法律科を卒業して、19
  03年、弁護士となり、まもなく検事に任ぜられた。
  1905年には、タヤバス州の知事に選ばれ、1907年フィリピン民選議会開設ととも
  に、議員に選出されて中央政界に乗り出した。

  渡米してジョーンズ法(自治法)成立につくす。

  1909年(明治42年)、議会より駐米委員として、ワシントンに派遣された。
  1916年(大正5年)8月29日、上院議員ウィリアム・アトキンソン・ジョーンズの提出
  した有名なジョーンズ法案(自治法と呼ばれる。 別項、歴史的考察の1.独立問題
  で再述します。)が、米議会を通過し、時のウィルソン大統領の裁可を得たのは、ケ
  ソンの手腕によるところが多い。 この法案によって、フィリピンは近い将来の独立許
  可に対する下準備として、島民の手による広汎な自治制を布かるるに至った。

  先輩、オスメニアを追い抜く。

  ケソンが初めて議員に選出された時、政友オスメニアは既に議会議長の要職にあり、
  ナショナリスタ党党首でもあったが、ジョーンズ法を土産に持ち帰ったケソンは、国民
  的感激を以って迎えられ、その政治的手腕を称えられて、同年、フィリピン上院の開
  設を見るや、その議長に推された。 しかし、彼は、ナショナリスタ党では副党首で、
  1921年にオスメニアと意見が衝突し脱党、コレクチビスタ党を組織して党首となり、
  ナショナリスタ党と対立した。 1924年に、この両党首は握手して党を合併し、ナシ
  ョナリスタ・コンソリダード党と称し、ケソンがその党首となる。


つづき