生い立ち、アギナルドの下で戦う、出世コースを歩む。
マヌエル・ルイス・ケソンは、1878年6月19日、元のタヤバス州、今のケソン州の
寒村バレーンに生まれた。 父は、スペイン人牧師で母はフィリピン人。
彼がサント・トーマス大学在学中に、アギナルド将軍を首領とする革命運動が起こり、
革命軍の士官として各地に転戦したが、治まって大学に帰り法律科を卒業して、19
03年、弁護士となり、まもなく検事に任ぜられた。
1905年には、タヤバス州の知事に選ばれ、1907年フィリピン民選議会開設ととも
に、議員に選出されて中央政界に乗り出した。
渡米してジョーンズ法(自治法)成立につくす。
1909年(明治42年)、議会より駐米委員として、ワシントンに派遣された。
1916年(大正5年)8月29日、上院議員ウィリアム・アトキンソン・ジョーンズの提出
した有名なジョーンズ法案(自治法と呼ばれる。 別項、歴史的考察の1.独立問題
で再述します。)が、米議会を通過し、時のウィルソン大統領の裁可を得たのは、ケ
ソンの手腕によるところが多い。 この法案によって、フィリピンは近い将来の独立許
可に対する下準備として、島民の手による広汎な自治制を布かるるに至った。
先輩、オスメニアを追い抜く。
ケソンが初めて議員に選出された時、政友オスメニアは既に議会議長の要職にあり、
ナショナリスタ党党首でもあったが、ジョーンズ法を土産に持ち帰ったケソンは、国民
的感激を以って迎えられ、その政治的手腕を称えられて、同年、フィリピン上院の開
設を見るや、その議長に推された。 しかし、彼は、ナショナリスタ党では副党首で、
1921年にオスメニアと意見が衝突し脱党、コレクチビスタ党を組織して党首となり、
ナショナリスタ党と対立した。 1924年に、この両党首は握手して党を合併し、ナシ
ョナリスタ・コンソリダード党と称し、ケソンがその党首となる。
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